あの頃の甘酸っぱい思い出をもう一度
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序章:ちいさな冒険 その4

 家の外へ一歩出れば、そこはもう雪景色。
 工房内が蒸し風呂状態だったせいで、アリーチェは着替えてくるのを忘れていたようです。あまりの寒さに自らの肩を抱きました。
「うう、さむっ」
 言葉と共に吐き出された息も真っ白に染まっています。
 ですがつい数秒前に大きな声と共に家を出てきたばかり。忘れ物をしたなどとすぐに戻るのもなんだか恥ずかしいものです。
「そうだ、こくばんでコートを描けば……」
 こういう時こそこくばん魔法の力の借り時でしょう。アリーチェはポケットからチョークを取り出し、さらさらとこくばんに絵を描くと呪文を唱えます。
「”ライズ”!」
 こくばんに描かれていた暖かそうなコートがひとりでに消えたかと思うと、絵と遜色のない、厚手の革のコートが柔らかな雪の上にふわりと広がりました。
「これでよし、と」
 アリーチェはさっそく拾い上げて袖に腕を通します。
 着てみると一番上のボタンがありません。これでは胸元から冷気が入ってきてしまいます。
「ちがう……」
 コートを脱ぎ捨て、新しいコートの絵を描き、呪文を唱えます。
 同じような革のコートが雪上にばさりと落ちました。
 ですが袖を通してみると、ボタンやボタン穴はきっちり揃っていますが、左右で袖や裾の長さが違います。なかなか上手くいきません。
「”ライズ”」
 三度目の正直。さっきまでと色の違う、白い革のコートが出てきます。
 今度こそボタン穴の数も揃い、裾や袖もきっちりしたものが出来上がりました。
「よし、これでこんどこそじゅんびかんりょー!
 ぴよぷー、行くよー」
「ぴー」
 近くの高い木の枝に止まっていたぴよぷーに声をかけると、気の抜けそうな短い返事が返ってきました。
 てくてくと歩き出すと、ぴよぷーは一メートルほど後ろを低空飛行でついてきます。
 冬の間は森の生き物達もそのほとんどが眠りについています。
 黒の森はシン、と静まり返っていて、アリーチェの雪や枝を踏みしめる音と、ぴよぷーの羽ばたきの音以外には何も聞こえません。
 静寂が黒の森の寂しさを一層浮き立たせます。
「あ、そうだ。ちず見ないと」
 後ろを飛んでいたぴよぷーを呼び寄せ、鞄から地図を引っ張り出します。
 鞄の中ですっかり皺だらけになっていた地図を伸ばしてじっと見つめて一言。
「んん?」
 地図に描かれていたルートは、アリーチェの見覚えのないものでした。どうやら普段おじいさんと歩いているのとは別の道が指定されているようです。
 もっと安全な道が見つかったのでしょうか?それともおじいさんがこのために特別に用意してくれたのでしょうか?
 何にせよ、町までの道をおぼろげにしか覚えていないアリーチェには地図通り進むことしかできません。
「まずはこの木のところを右にすすむのね」
 地図で最初の分岐点を確認すると、今度はきちんと折りたたんでぴよぷーの鞄のポケットに差し込みます。
 革のブーツで雪を踏みしめること十数分。時折雪に足を取られながらも、なんとか地図に記されていると思しき場所にたどり着きました。ですが地図とは少し様子が違います。
「わあ……たおれてる……」
 大きな大きな巨木が根元から腐り落ち、横倒しになっていました。
 辺りは木が密集して生えているため、回り込もうにも指定されている道とは随分と違う方向へ進んでしまいそうです。
「ぴよぷー、どうしよう?」
 振り返って尋ねてみますがぴよぷーは答えてくれません。
「ぴぃ」
 それどころか、早く行けと言わんばかりの表情です。
「やくたたずのとりめ」
「ぴ?」
「ううん、なにも言ってないよ」
 仕方なく、登って越えてみることにしました。
 とはいえ巨木は幹の直径だけでも十メートルは悠に超える大きさ。遠くからでないとアリーチェが見上げても天辺が見えません。なかなか骨が折れそうです。
「えーっと、ここに足をかけて……わっ!」
 手ごろな高さの横枝を見つけ、足をかけて登ろうと試みます。ですが枝はアリーチェの体重を支えるのには少々細すぎたようで、体重をかけるといとも容易く根元から折れてしまい、勢い良く雪の中に全身が沈み込みます。
「よっこいせ……っと」
 人気のない森では、降り積もった雪を踏み固める者がいません。
 柔らかな雪のおかげで体へのダメージはありませんでしたが、全身が完全に雪に埋もれてしまったので起き上がるのにも一苦労です。
「これならだいじょうぶかな?」
 別の枝を見つけ、今度は事前にしっかりと体重をかけて安全かどうかを確かめます。
 アリーチェが両手をかけ、精一杯体重をのせてみても枝はびくともしません。この枝なら登っても大丈夫そうです。
「うんしょっ」
 枝に両手をついてその間に腹をのせ、右足を枝にかけて一気に体を上へと引き上げます。今度はうまくいきました。
「つぎはー……こっちかな?」
 次の枝は少し高い場所。
 足場が心許ないので、まずは右手で掴みます。ついで左手も伸ばし、足元の枝を蹴って体重を次の枝へとかけようとした時、左足が豪快に滑りました。
「ひゃあっ」
 べしゃっという湿った音。顔面から思い切り雪面へと落下しました。さすがに痛そうです。
 ぴよぷーが心配してそばへとやって来ました。
「ぴー?」
 埋もれたまま動かないアリーチェに、案じるような言葉をかけます。
「あったまきたっ!」
 アリーチェがむくりと上体を起こしました。その鼻からは赤いものが垂れています。どうやら地面に強く打ちつけてしまったようです。
「こんなじゃまなもの、もやしてやるっ」
 アリーチェはポケットから赤と黄の二本のチョークを取り出すと、猛然と腕を動かし始めました。
 こくばんには、巨木を飲み込んで赤々と燃える炎がみるみるうちに描かれていきます。
 自分まで巻き込まれると大変なので、十メートルほど距離をとってから呪文を唱えました。
「”ライズ”!」
 アリーチェの甲高い声に応えるように、豪快な火柱があがりました。
 炎はあっという間に巨木を包み込み、積雪で水分を含んだ巨木を、その水分ごと蒸発させるかのように燃え上がります。
「ぜんぶもやしちゃえ!」
 アリーチェの想像力を糧に、炎は更に勢いを増していきます。勢いはとどまることを知らず、巨木だけでなく、周りの木をも巻き込んで――。
「あ、あわわ……!」
 アリーチェが気づいた時には、既に巨木を含む十本もの木が白煙をあげて炭に変わっていくところでした。
 このままだと大惨事になってしまいます。
 本当は”炎が周りに広がり、大惨事になっていく”という想像を遮断してしまえば、想像力を源に燃えている炎はあっという間に消えてしまいます。
 ですが、おじいさんに立派なこくばん使いになるようにと育てられ、五歳にして既にその才能の片鱗を見せ始めている……つまり想像力に長けたアリーチェにとって、そんな器用なことはできません。
「ど、ど、ど、どうしよう……!?」
「ぴいぃ!ぴー!ぴぴー!」
 青を通り越し、真っ白になった顔でぴよぷーを振り仰ぎます。ぴよぷーは忙しなく羽ばたき、アリーチェに何事かを伝えようと必死にぴよぷー語で喋っていますが、アリーチェには伝わりません。
 そんなことをしている間にも、炎はどんどん広がっていきます。一刻も早くなんとかしなくては、森が焼け野原になってしまいます。
「え、えーと……水!火をけすには水!」
 ようやく打開策を思いつきました。白と青のチョークを取り出し、大急ぎで厚い雲と嵐のような雨を描いていきます。
「”ライズ”!」
 上空に厚い雲が出現し、土砂降りの雨が踊り狂う炎に、そしてアリーチェにも襲い掛かります。
 じゅうじゅうと音を立て、あれほどまでに苛烈に燃えていた炎がみるみるうちに鎮火されていきます。
 天高く伸びていた火柱は勢いを弱めていき、アリーチェの身長ほどの高さとなり、更に勢いを弱め。
「きえた……かな?」
 まだ辺りにはもうもうとした白煙が立ち込めていますが、どうやら完全に炎の脅威は消え去ったようです。
 自然と大雨が止み、厚い雲も姿を消しました。
「よかった……」
 アリーチェはほっと息をつくと、腰が抜けてその場にぺたりと座り込んでしまいました。
 自らも雨に打たれたアリーチェは頭からコートから、全身がずぶ濡れです。
「こ、こんどから火をつかうときはきをつけよう……」
 アリーチェの頭には炎の恐ろしさがしっかりと刻み込まれました。
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