絵も描かずに雑談とな?
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序章:ちいさな冒険 その3

 二人と一匹の紹介が終わったところで、お話に戻りましょう。
 雪解け間近の黒の森は、依然として厳しい寒さの真っ只中にありました。
 一昨日ようやく五歳になったばかりのアリーチェは、もはや日課となった「冒険に出る!」アピールをするべく今日もおじいさんの工房に向かいます。
 工房はこの大きな建物の一番奥まった場所にあります。中にはこくばんを作るのに必要な特殊な塗料や石といった材料や、こくばんを焼き上げるための釜や最後の仕上げをするためのやすりなど、驚くほど沢山の道具が整っています。
 アリーチェが肩で切り揃えられた金の髪を揺らして工房に入ると、工房内では釜に火がくべられ、ごうごうと低い音を立てて真っ赤に燃えています。
 窓は開いているのに冬とは思えないほど蒸し暑く、まるでサウナの中のに入ってしまったかと錯覚してしまいそうになります。
 そんな工房で、おじいさんは額から汗を流しつつ塗料を塗ったこくばんを釜で焼いているところでした。
 おじいさんの作るこくばんは、作り始めてから出来上がるまで早くて二週間、時間がかかる時は一ヶ月かかることもあります。
 季節による気温や湿度の上下、昼夜の気温差などで出来が左右されてしまい、機械化がとても難しいとされるこくばん作りですから、その値段は驚くほど高いのだとか。
 おじいさんが釜の蓋を閉めるのを待ってから、アリーチェはその足元に飛びつきます。
「おじいちゃん!わたしもぼうけんしたい!うんとたかい山にのぼったり、どろぼーをやっつけたりしたい!」
 ぴょんぴょんと飛び跳ねながらおじいさんを見上げます。
 普段通りであれば、ここでおじいさんは「もう少し大きくなったらな」とか「まだ絵も満足に描けんだろう」だとか言って忙しそうにこくばん作りに没頭してしまうのですが、今日は少し違っていました。
 おじいさんは腰を屈め、アリーチェと向き合います。
「アリーはもう五歳になったのだったかな?」
 いくら元気だとはいえ、もう御年八十歳のおじいさん。さすがにボケてきたのでしょうか。不安になったアリーチェの眉尻が下がります。
「おととい『ひとつ大きくなった』ってお祝いしたばっかりだけど……忘れちゃったの?」
 おずおずと自らを見上げてくるアリーチェに、おじいさんは笑って答えました。
「ははは、忘れてはおらんよ。そうだな、もうアリーも五歳になった。
 そろそろ冒険の準備をしてもいい頃かもしれない」
 まだボケていなかった、とほっとすると同時に、てっきりいつものように「ダメだ」と却下されるとばかり思っていたアリーチェは驚いて目を大きくみはりました。
「ほんとう?」
「本当だとも。ただし、冒険に出てもいいという意味ではない」
「???」
 おじいさんの言葉の意味を図りかね、アリーチェは首を傾げます。
「今からこのこくばんを持って、リロフォンの町まで一人で買い物に行けるかね?」
 リロフォンといえば、薄暗い黒の森を抜けてすぐのところにある小さな町です。
 町の名前の由来にもなっている、リロ草という独特の香りを持つ草を使った食品や食器、雑貨などが特産品です。黒の森にも自生していますが、この辺り以外では栽培しようと持ち出してもすぐに枯れてしまうらしく、物珍しさもあって遠くから買い付けにくる行商人も多いのだとか。
 そんなリロフォンへは、時々おじいさんと一緒に生活必需品を買出しに行くことはありますが、一人で町まで出かけたことはこれまで一度もありません。
「もし無事に帰ってこれたら、これからは冒険に必要なことを色々教えてあげよう」
「ぼうけんにひつようなこと?」
 おうむ返しで尋ねるアリーチェに、おじいさんは深く頷きます。
「そうだ。こくばんで冒険がしたいのならこくばんをもっともっと使いこなさねばならん。それにこくばんが使えるだけではダメだ。
 例えば綺麗な景色が見たいなら、森や山の中を何日も歩くことになる。そうすると毎日屋根がある場所で眠れるとは限らないだろう?
 そういう時、アリーはどうする?」
 アリーチェは右の人差し指を下唇に当てて考えます。そしてすぐに名案が思いついたのか、両手をぽんと合わせて大きな声で答えました。
「こくばんでおうちを作る!」
「それだと寝てしまったら家はなくなってしまうよ」
 こくばん魔法を使うには、使用者の”想像力”が必要不可欠。寝てしまって意識が吹き飛べば、こくばん魔法で作られた家は塵一つ残さず消えてしまいます。
「うーんと、うーんと……わかんない」
 アリーチェはうなだれてしまいました。
 すっかりしょげてしまったアリーチェの頭を、おじいさんがぽんぽんと優しく撫でます。
「知識もなくただ闇雲に冒険に出かけても、綺麗な景色を見たり悪党をやっつけたりすることはできん。
 だから立派に一人で買い物が出来たら、わしが知る限りの冒険のための知識を教えてやろう」
「うん!」
 アリーチェは大きく頷くと、おじいさんに手渡されたこくばんをさっそく首から提げました。アリーチェ用にしては少し大きいようで、なんだかぶかぶかのTシャツを着ているような感じです。
「そのこくばんはアリーのために作った特製のこくばんだ。
 しかも今では手に入りにくい材料を使ってある。少し使えばわかるが、とても描きやすいはずだよ」
 描いてごらん、とチョークを渡され、アリーはこくばんにチョークを走らせました。その描き味はびっくりするほど滑らかで、寸分の狂いもなく自分の思った通りの絵を描くことができます。
「できた……”ライズ”!」
 舌足らずな声でアリーチェが呪文を唱えます。すると一瞬にしてこくばんに描かれた絵が消失し、変わりにおじいさんの頭に可憐な黄色い花が咲きました。
「何を描いたんだ?わしに見せる前に呪文を唱えては……」
 部屋を見渡すおじいさんの頭の上、小さな花が窓からの風を受けてゆらゆらと左右に揺れています。
 おじいさんはまだ気づいていません。アリーチェは思わず吹き出してしまいました。
「おじいちゃん、なんかあたまの上にへんなものがあるよ!」
「ん?……うわっ」
 壁に立てかけてある大きな鏡を確認すると、おじいさんは慌てて頭に生えた花をむしり取り、そのまま開いた窓の外へ放り投げます。
 見事な放物線を描いて花は窓の外へと消えていきました。
「こら、いたずらはいかんとあれほど……で、描き心地はどうだった?」
「とってもよかった!」
 アリーチェは笑顔で答え、おじいさんはその反応に何度も頷きます。
「では、そろそろ買い物に行ってもらおう。
 買ってくるのはわしの好きなリロ草のパンを三つ、そうそう間違えずにハンクスおじさんの店で買ってくるんだよ。それと隣の店で鶏肉も買ってきてくれ」
 おじいさんはすらすらとメモに買い物リストを書き、森の地図と共にアリーチェの手に握らせました。
「じゃあ行ってきます!」
 さっそく出て行こうとするアリーチェをおじいさんが引き止めます。
「一人だとさすがに危険すぎる。荷物持ちがてらぴよぷーを連れて行きなさい」
 そう言っておじいさんが机の上のベルを手に取り、逆手持ちで大きく振ります。
 といってもベルから音は鳴りません。もっと正確に言うと、人間に聞き取れる音は出ず、ぴよぷーにだけ聞こえる特殊な音の出るベルなのだとか。
 ベルを振って数秒後、ばさばさと騒がしい羽音が聞こえてきたかと思うと、大きなひよこが体をつかえさせながら窓から入ってきました。おじいさんの使い魔のぴよぷーです。
 大きなショルダータイプの鞄を提げたぴよぷーは、机の上にどっかと腰を下ろし、自分を呼んだ理由をおじいさんに問いかけます。
「ぴぃ?」
 おじいさんは懐からナッツを取り出すと、手のひらに乗せてぴよぷーに差し出しました。ぴよぷーに何か用事を言いつける時の常套手段です。
 ぴよぷーは訝しげな表情でおじいさんの様子を窺います。
 ですが食べるまでは何も言う様子がないとわかると、くちばしでナッツを器用に挟み、小気味良い音を立てて噛み砕き、飲み込みました。
 ぴよぷーがナッツを胃袋に収めたのをしっかりと見届けてから、おじいさんは口を開きました。
「今からアリーと一緒にリロフォンの町へ買い物に行って来てくれ。
「ぷ!?」
「ああそうそう、鶏肉もちゃんと買ってくるよう頼んであるぞ。帰ってきたら焼き鳥にしてやるから」
「ぴ……ぴぃ」
 一瞬不満気な顔をした(ように見えた)ぴよぷーは、好物の焼き鳥という単語に仕方なく了承したようでした。
 体型はともかくどう見てもひよこ、いわゆる鳥類にしか見えないぴよぷーですが、自らのことを鳥呼ばわりされることが何より嫌いで、勿論他の鳥のことをも毛嫌いしています。
 そのためか好物は焼き鳥で、とにかく焼き鳥には目がありません。
 食べることで鳥類に勝った、とでも思っているのでしょうか、困った使い魔です。
「ぴよぷー、これ持って」
 アリーチェがぴよぷーのショルダーバッグに地図とメモをぐちゃぐちゃと押し込みます。
「ついでにこれを被って行きなさい」
「?」
 おじいさんが壁際の棚に近づき、何かを持ってやって来ます。
 茶色くて丸い皮製のそれは、アリーチェには少し大きめのベレー帽でした。
「わあ、ありがとう!」
 アリーチェは受け取るとさっそく被ります。やはり少し大きめで、アリーチェの頭を、おでこというよりは目のほんの少し上からうなじまですっぽりと覆ってしまいました。
「では、気をつけてな。
 わしはぴよぷーの視界を借りて見ているから、森の中で何か危険な目に遭ったら安全な場所に逃げて待っていなさい」
「はーい!行ってきます!」
 おじいさんの言葉に大きく手を上げ答えると、アリーチェは工房に設えられた裏口から元気よく外へ飛び出しました。
 小さなアリーチェとぴよぷーの冒険のはじまりです。
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