序章:ちいさな冒険 その10
少しおじいさんの待つ工房内の様子も見てみましょう。
無事町にたどり着いたアリーチェを見届け、機嫌良く鼻歌を歌いながら焼き上がったこくばんに刷毛で液体を塗りつけていたおじいさんですが、しばらくして壁にかけたこくばん、つまりぴよぷーの視界に白黒マフラーを巻いた女の子が映った途端、目を見開きます。
「ラプト……!ベイジスか!?」
食い入るようにこくばんを見つめていたおじいさんですが、唐突にその映像が暗転してしまいました。ぴよぷーが目を閉じてしまったようです。
「こ、これでは何も見えん」
映像がないのなら、せめて音だけでも。そう思いこくばんから聞こえてくる音に注意を払いますが、音はとても小さく、おまけに古いレコーダーのように掠れています。
『あなたが…………』
『…………そうだけど……』
「わ、わからん……どうなっているんだ……あの子はベイジスの子供か?」
こくばんの前を右に左に行ったり来たり、頭をガシガシと掻きむしったりして待っているとこくばんに映像が戻りました。
即座にこくばんにかじりつくようにして注視しますが、肝心のぴよぷーの視界は窓の外。女の子やマフラーに擬態した猫の姿は見えず、かろうじて聞こえてくる会話に耳を傾けることしかできません。
『…………しょうぶ……!』
『……どうやって?』
『……デブヒヨコは…………』
『ぴよぷー………………連れて……』
聞こえてくる会話は不鮮明で、余計におじいさんをヤキモキさせます。
ふと、ある疑問がおじいさんの頭をよぎりました。
「ぴよぷーもラプトも、互いに覚えておらんのか……?」
ぴよぷーはおじいさんの昔からの使い魔ですし、同様にラプトもかつてのライバルであるベイジスの昔からの使い魔です。互いの使い魔を使って幾度となく衝突したこともあり、その記憶は今でも鮮明におじいさんの脳裏に焼き付いています。
となると、ぴよぷーとラプトも覚えていておかしくはないはず。
ですが二匹が相手を攻撃したり、威嚇したりといった様子は微塵も見られません。
「”トリ頭”と”恩を三日で忘れる”か……」
後者はちょっと違う気もしますが、おじいさんとベイジスが争っていたのはもう四十年も昔の話。単純思考の持ち主であろう二匹が覚えていないのも仕方ないのかもしれません。
『ぴよぷー!ちょっと手伝ってほしいことが!』
いつの間にか暗転していたこくばんに、再び視界が戻ります。
どうやら、顔なじみの店の戸口からアリーチェがぴよぷーを呼んでいるようです。
最初は嫌がっていたぴよぷーですが、アリーチェに焼き鳥で釣られやる気になったのか、俊敏な動きで店の外へと視界が変わります。
ベイジスによく似た銀髪碧眼の女の子と、いつの間にかマフラーの擬態を解いたラプト、パン屋のおばさんの指さす方向には頂上にリンゴの木の生えた丘。
映し出される映像で、大体の流れはわかりました。
「勝負、か……」
かつての日々を思い出したのか、おじいさんの口元にふっと笑みが浮かびました。
やがてパン屋のおばさんの合図と共に、レースが否応なしに始まります。おじいさんの視線はこくばんに釘付けになりました――。
「よーい、スタート!」
おばさんの合図と共に、先に飛び出したのはぴよぷーでした。
大通り沿いの二階建ての建物よりも高く飛び上がり、そのまますいすいと空中を進んでいきます。
ラプトは人混みを避けるようにして道の中程から一気にジャンプ。猫とは思えない跳躍力で三階建ての建物のベランダへ飛び乗り、そこを足場にして更に屋根へと飛び移ります。
空中を真っ直ぐに進んでいくぴよぷーと、屋根の上を飛び移りながら進んでいくラプト。一旦開いてしまった二匹の距離はなかなか縮まりません。
アリーチェとリズの二人はおばさんに案内され、パン屋の二階の窓からレースの様子を眺めます。
「ラプト!しっぽをつかいなさい!」
遅れを取り戻させようと、リズが声を張り上げます。
その声に反応し、ラプトが行動に出ました。側の家のベランダに吊られていた物干し用のハンガーを器用に尻尾でかすめ取ると、ぴよぷーに向かって投げつけます。
一発目は交わされ、けれども二発目がぴよぷーの後頭部にヒットしました。
「ぴ、ぴよぷー!」
「ぴぃっ!」
ぴよぷーが空中で大きくバランスを崩します。
ラプトは一気に距離を詰め、尻尾でぴよぷーのトサカをキャッチ。そのまま遙か後方へと尻尾の力を使ってぶん投げました。
「ぴぴー!」
ぶん投げられたぴよぷーはもの凄い勢いで一直線に左後方へ。
一つだけ高い集合住宅の壁にぶつかりかけ、必死で翼をばたつかせます。
ぶつかる寸前でなんとか体勢を立て直したぴよぷーの目は、完全にハンターの目と化していました。
「ぴ……ぴー!」
怒りで小刻みに体が震え、それと同時に黄色かったトサカがみるみる赤く変色していきます。
トサカを真っ赤に燃え上がらせ、既に遠くなってしまったラプトを追い抜くべく、鼻息も荒くぴよぷーが猛追を始めます。
ですがラプトはもう丘のすぐ手前。今度はぴよぷーが攻勢に出ました。
更に空高く飛び上がると、ショルダーバッグの蓋をくちばしでぺらりと持ち上げます。露わになった鞄の中には、ぎっちりと色とりどりのチョークが詰め込まれていました。
「ぴー!!」
大きな声を上げ、前傾姿勢でトサカを軸にして勢い良く一回転。バッグから大量のチョークがラプトに向かって降り注ぎます。
「ワッ!」
ラプトは大きな尻尾でチョークをいくつもはじき飛ばしますが、雨の如く降り注ぐチョーク全てを防ぎきることはできません。
しっぽをかいくぐったチョークのいくつかが背中や足に当たり、ラプトは体勢を崩して屋根の上をごろごろと丸くなって転がります。
その間にぴよぷーが距離を詰めますが、ラプトが再び走り出すのが先でした。
ラプトは小高い丘を駆け上がり、あっという間にリンゴの木に登って茎を食いちぎり、落下していくリンゴを尻尾でキャッチします。
ラプトが木の幹から飛び降りるのと同時に、ぴよぷーがリンゴの木に辿り着きました。
ラプトと同様に茎ごとリンゴをもぎ取り、蓋の開いた空っぽな鞄の中へと落とし込みます。
共に中間地点を通過し、あとはスタート地点へと戻るだけ。
二匹は商店に並べられた焼き鳥や魚を餌に相手を釣り、激しく順位を入れ替えます。
「ぴよぷーがんばって!」
「ラプト、もっとはやく!」
アリーチェとリズの応援にも熱が入ります。
そしてゴールまであと百メートルという地点で、遅れていたぴよぷーがついにラプトの尻尾を捕らえました。
「ラプト!」
「イタイッ!」
屋根から別の屋根へと飛び移ろうとしていたラプトですが、それは叶いません。ぴよぷーの足にがっちりと尻尾を押さえつけられ、反動も殺せず商店の壁に全身を打ち付けます。そのままぶらんと逆さまに吊られた形になってしまいました。
一方、ぴよぷーはラプトの尻尾を右足で踏みつけつつ、自身の勝利を悟って高らかに勝利宣言の歌を奏で始めました。
「ぴぴ~ぷ~ぴ~ぴぴぃ~」
そのあまりの音程の酷さと高周波のような高音に、ラプトや周りの観衆、関係のない町人までもが耳を押さえます。
「みみがいたい……」
「な、なんなのこのヘタなうたは……」
ぴよぷーの酷い歌は、勿論パン屋の二階にも響き渡ります。二階で観戦していた四人は揃って耳を押さえました。
「アリーチェ、あのひどい歌なんとかできないのかい!?」
「む、むり」
パン屋のおばさんが顔をしかめて尋ねてきますが、アリーチェは困ったように首を左右に振ります。
まだぴよぷーの扱いに慣れていないアリーチェにはどうすることもできません。
「ぴぷぷ~ぷ~ぴぃ~ぷぅ~」
ようやく曲が終わったようです。大声で歌えてよほど気持ちよかったのか、ぴよぷーはその場で満足げにふんぞり返りました。
その足下では、ラプトが必死で足や体をくねらせたりばたつかせています。
「ぴよぷー、うたはいいから!はやくゴールして!」
アリーチェが頭痛を堪えて立ち上がり、窓越しに叫びます。
「ぴー……」
せっかくの歌の余韻をぶち壊しにされ、ぴよぷーはすっかり不満顔。
それでもラプトの尻尾をくちばしでするすると繰り寄せると、真横にある隣家の窓手すりに、くちばしと左足を使って器用に尻尾を通していきます。
ついでにリンゴを奪おうとしますが、ラプトもそれだけはさせまいと必死に抵抗します。
「リズ、ゴメンナサイ」
「ラプト!はやくにげなさい!」
ラプトとリズのやり取りを余所に、リンゴを奪い取ることは諦めてラプトの尻尾を堅く括り付けようとするぴよぷー。ですがラプトの妨害に合い、少しバランスを崩した瞬間、鞄からリンゴが真っ逆さまに落ちてしまいました。
「ぴよぷー、リンゴ!」
ぴよぷーもそれに気づき慌てて拾いに向かいますが、その間に結びが中途半端だったラプト尻尾がほどけ、当のラプトは空中で体を捻ってうまく着地。そのまま狭い路地の地面を疾駆して行きます。
「ぴい!」
どうせ拾うのなら、しっかり括り付けたあとでも充分でした。しかし時既に遅し。
このままでは、ラプトが先にゴールしてしまいます。焼き鳥のため、意地でも負けるわけにいきません。
ぴよぷーは屋根を蹴って上空に飛び上がると、今度はくちばしを軸にして横ドラム式洗濯機のように回転をはじめました。
「ぴよぷー!いそいで!」
焦るアリーチェの指示にも従う様子はありません。洗濯機のような回転は徐々に加速していきますが、その間にもラプトはゴールまでの距離を縮めています。
「なにがしたいの?あのヒヨコ」
リズが冷たい声で吐き捨てますが、それはアリーチェにもわかりません。
「ぴぃぃぃー!」
やがてあまりの回転の速さに回転する物体がぴよぷーなのか、それとも黄色い毛玉なのかがわからなくなった頃、ぴよぷーがようやく掛け声と共に急発進!
目にも止まらぬスピードでアリーチェたちの待つ二階の窓へと突進してきました。
突進地点から窓までの距離はおよそ百メートル。空気を切り裂き、その距離をたったの三秒程度で通過したぴよぷーは、勢い良く窓から入室。
「ひゃっ!」「うわあっ!」「わあっ!」「きゃっ!」
口々に悲鳴を上げながらも、咄嗟に頭を下げた四人の頭上を弾丸と化したぴよぷーが一瞬で通過します。
激しい擦過音と、部屋中に舞い散る黄色い羽。
体と床とで摩擦を生じさせ、ようやく弾丸ぴよぷーは止まりました。
床から立ち上る白い煙が、摩擦の凄さを物語っています。
「ぴい!」
息も荒々しく立ち上がり、血走った目で振り返るぴよぷー。くちばしの下から足の付け根にかけて摩擦で羽が抜け落ちてしまい、綺麗な円形ハゲが出来上がっています。
「ぴ、ぴよぷー……」
マヌケな姿に吹き出しそうになりますが、後のことを考えると笑うに笑えません。トディやおばさんは可笑しそうに笑っていますが、アリーチェは必死で堪えます。
「ぴぴい!」
ぼろぼろになったぴよぷーが褒めろ!と言わんばかりにアリーチェの足下へとやって来ます。
アリーチェはそのくちばしから潰れたリンゴの欠片を受け取ります。よくやったと頭を撫でようとしますが、さっと身を躱されてしまいました。
「ぷー!」
禿げた鳥類は報酬を要求しているようです。しかしながらまだ鶏肉は手元にありません。
アリーチェがぴよぷーを刺激しないよう宥めている横で、勝利を確信していたリズは予想外の出来事に言葉もない様子。放心しきった表情でその場に立ちつくしています。
その時、ようやくラプトが窓から飛び込んできました。
「タダイマ!」
「ラプト!」
棒立ちしていたリズはようやく我に返り、慌てて窓際に駆け寄ります。
ラプトはひょいとリズの肩に飛び乗ると、体をリズの頬にすりつけました。
「リズ、ゴメンネ」
「あんなかわいくないヒヨコにまけたぐらいでおちこまなくていいのよ。よくがんばったわ」
リズはそっとラプトの顎の下を撫で、ラプトは気持ちよさそうに目を細めます。
それぞれが落ち着いたところで、おばさんが大きな声を出しました。
「さて、それじゃ結果は一目瞭然だね!この勝負、アリーチェとぴよぷーの勝ち!」
「やったー!」
アリーチェが直接争ったわけではないのですが、勝ちは勝ち。アリーチェはトディとハイタッチしながらぴょんぴょんと飛び跳ねます。
「ぴよぷー、ありがとう!」
「ぴぃっ」
ぴよぷーもまんざらではなさそうです。
「つかいまどうしの”きょうそう”でかっただけじゃない」
冷たい声で、リズが悔しさを紛らわすかのように言い訳します。ですがアリーチェももう言い負けしません。
「でも、かちはかちだよ」
アリーチェの言葉に、リズは頬を赤く染め、眉をひきつらせました。
「じゅうねんごよ!」
勝負を挑んだ時のように、アリーチェに向かって指を突きつけます。
「じゅうねんご、こんどこそまほうでしょうぶ!」
リズはそう言い切ると、突きつけていた指を下ろしてラプトの尻尾を元のように首元に巻きつけます。そしてレースを仕切ってくれたおばさんに軽く頭を下げ、階段を下りてパン屋を出て行ってしまいました。
「じゅうねんご……って、どうやって会うつもりなんだろう?」
アリーチェがはてなと首を傾げます。言葉の真意はよくわかりませんが、旅をすればまた会うこともあるでしょうか?
兎にも角にも、よくわからないまま唐突に始まった勝負はアリーチェとぴよぷーの勝利に終わりました。
紆余曲折の末アリーチェはようやく目的のパンを買うことができ、おまけにパン屋のおばさんにぴよぷーのために鶏肉まで焼いてもらい、深々と礼を告げてリロフォンの町を後にしました。
「わあ、もうお日さまがあんなところにある!いそがないと!」
時刻は既におやつの時間を過ぎています。森は開けた町よりも暗くなるのが早く、そのぶん急いで帰らなければなりません。
地図を頼りに本来の出口を見つけ出し、今度は正しい道を通って家へと帰ります。
さすがに冬に禿げたまま外気に身を晒すのは寒かろう、とアリーチェがこくばん魔法で作った黄色いマフラーを巻いたぴよぷーは、レースで体力を使い切ったのか、大人しくアリーチェの後ろを飛んでいます。
アリーチェは小さな体でほとんど休み無く歩き続け、障害だらけだった行きと違い、ほんの一時間半で家まで着きました。
「おじいちゃん、ただいまっ!」
工房の扉を開けて中に入ると、馴染んだ家の匂い。たったの半日ぶりなのに、なんだか数ヶ月ぶりに嗅いだかのように懐かしくなります。
「おお、アリー!おかえり。ぴよぷーもよくがんばったな」
釜の温度調整をしていたおじいさんは作業の手を止め、しゃがんで優しくアリーチェを抱きしめました。
「ねえおじいちゃん、しけんはごうかく?」
抱擁を解かれ、アリーチェが小さな声で尋ねます。
「そうだな、色々行動に問題はあったが、お前の歳ならそんなもんだろう」
「やったー!」
その場で飛び跳ねて喜ぶアリーチェに、おじいさんが不適な笑みをこぼします。
「これからはみっちり鍛えてやるぞ。冒険に出る頃には腹筋二百回に背筋百回の筋トレも余裕だろう」
「うわあ……」
アリーチェは苦虫を噛み潰したかのような表情になりました。
合計三百回の筋トレセットは、想像しただけでも筋肉痛になってしまいそうです。
「さあ、さっそく修行だ。少し休んだら、今日は一緒に晩御飯を作るぞ」
「はーい」
アリーチェが元気よく右手を挙げ、ぱたぱたと走って工房を出て行きました。
その後を追うようにしてぴよぷーが、最後におじいさんがランプの明かりを消して工房から出ると、扉は音を立てて閉じられます。
すっかり薄暗くなった工房内の大きな柱時計が、日没の時刻を知らせる低い鐘の音を奏でました。
アリーチェの小さな冒険はここで終了です。
数年後、たくましく成長したアリーチェは黒の森を旅立ち冒険に出ますが、それはまた別の物語。別の機会に語ることにしましょう。
挿絵を描く 挿絵一覧